on
無量院 − 指ヶ谷町以外附近各町
無量院
戸崎町九十一番地にあり、薬王山無量院、能覚寺と号す。 浄土宗、智恩院末寺たり。 始め神田 にあつたが、明暦三年の大火後此地に移る。
境内に小野小町の石塔と云ふものがある。
外に建部昌興の墓あり、小石川誌料に伝内及伝右衛門と云ふ建部伝内賢爲の子也。 十三歳の時 父におくれ、外戚井上氏の家に養育されて書を学ぶ、筆勢父に及ばずといへども亦世に称せらる。 長束正家、佐野綱正が許に寄食す。 慶長紀元の年、書をもて麾下に召され、祐筆の役を奉じ、兼て連枝の方々に書法を与へ奉る。 されば世上に昌与力流を御家流と云、元和三年御上洛の頃、命を受け朝廷の規式、武家の古実を筆記して献ず、明暦元年歿すとあれば此の墓もと神田にあり、大火後に移せしものなるか。