一 芸妓の起源 第三章 往時の小石川花柳事情

第三章 往時の小石川花柳事情

一 芸妓の起源

大道寺友山の落穂集に

『我等など若年の頃までは「万治、寛文頃か)踊子など申者はたとひいかほど高給を出し召抱申度と有之候ても御当地(江戸)の町中には一人も無之、三味線と申ものは盲目の女より外には弾申さず候云々。当時の議は件の盲女と申もの沙汰にも不承、野にも山にも踊り子三味線弾許りの如く罷りなり候は、元禄年中以来の議にても可有や』

とある。元禄から二十二三年過ぎた正徳年間、六代将軍の頃、新井白石先生が

『昔は当地に承り及ばぬ、舞子遊女の類ども出来候て総て是等の事長じ候ては世の財用を費やし、風俗を破り候て。よからぬ事のみに候』

と論じて居るのを見ると、江戸市中芸妓の前身たる踊子が段々数多くなり、大道寺友山が落穗集を著はした享保十二年頃になると、三十七八有余年間に、所謂『野にも山にも踊子と三味せんひき』との嘆声を聞くに至り、夫より十四年許り後、寛保元年、八代将軍古宗の末年には、踊子の余りに公然たる跋扈振りに、踊子停止と云ふ行政的厳命の下るのを見るに至つたのである。随筆『吾衣』に「踊子御停止となる。これ舞子三味せん等にて処々に雇はるゝ内に遊女体に類すること多く、由つて其類の御停止、これ「コロビ」芸者の鼻祖なり』と是を云ふのである。然し此の頃迄は踊子と称して未だ芸妓、女芸者なる文字が見えなかつたが、此の停止一件後十二三年立つ た宝暦四年には吉原に扇屋内歌扇と云ふもの、女芸者として現はれ後に至つて大黒屋庄六が見番を創立する様になり、明和の頃より芸者と一般に呼ぶ様になつた。明和五年十月出版の「さいづり草」には吉原の廊内に芸者の部が明記されて居る。

元来、踊子と云ふものは妾の下準備であつて、大小名、旗下、町家の富豪などに売附るために幼少の時から舞踊を仕込み、十五六歳に至れば三味線引く年増の女をつけて宴席の招きに応ずるものであつた。元禄二年五月廿一日の町奉行からの禁令に

「町中にて女おどり子を仕立、女子ども召連れ、屋敷方へ遣はし踊らせ候山相聞え、不屈に候、向後相互に吟味仕り、右の女ども集め置き屋敷は申に及ばず、何方へも一切遣し申聞数候」

とあるに見ても踊子の如何なるものであつたかが分ると共に、当時踊子の繁昌を推想せしむるものがある。然し此等の禁令も只当座丈けの事で、飯上の蠅を追ふと一般其の後幾くもなく又盛んになつたのみならず、六代将草家宣の如きは、踊子を大勢大奥へ召よせて演劇をさせ、其の中より容色の綺麗なものを留置き寵愛したと云ふに至つた。将軍家から此の通りであつたから此の頃踊子が大に繁昌したのも無理のない事であつた。其の後終に御定書百箇条にまで、

『一踊子呼寄、為二致遊女一候料理茶屋、所払、家主過料、地主重過料』

と法律に罰則を明記する事になつた。踊子も其の数が多くなり、大名、旗本のお妾となるもの、或は直ちに料理茶屋に呼ばれて客席に侍して酒興を添へ、いつしか遊女淫売をなすもの甚たしきに至つて、此の罰則が出づる様になつたのである。

前に記した如く江戸芸者の実体的存在は所謂踊子に端を発するとしても其の名の起りは、宝暦の頃、吉原に女にて幇間の真似する者あつて之を女芸者と云ひ、常に幇間は男芸者と云ひしが、 後段々女芸者多くなり、江戸の他町へも分れたれば之を町芸者と云ひしことも確かなれば、此の吉原の女芸者から起りたるものと、又一方に於て在来の踊子が転化して芸者となりしものもあつたから、両様斉しく江戸芸妓の起りとなつたものであらう。是は尚後の考証を待つことにする。

芸妓は今日東京市に渉つても非常に多数に上つて居るが、参考となし得べしと信ずる諸書に散見した処を拾つて見ると、其の発展し来つた趨勢を知る事が出来る。

一 江戸町芸者 百六人 安永年間

一 同 三百十二人 天保年頃

一 同 百八十八人 嘉永年間

天保年間から嘉永に至つて其の数が激滅したのは、此の間に水野越前守の天保十二年の改革があつたので、一時殆んど全滅の姿となつたのが、又々復活して嘉永年間の調べには百八十八人と 云ふ数に盛返したのであつた。

一 慶応二年の調べに

芝神明前 三十二人

新橋木挽町 六十人

日木橋霊岸島 四十九人

芳町辺 二十四人

柳橋辺 酌子供共 百四十二人

神田辺 三人

浅草辺 二十八人

猿若町辺 十人

下谷辺 四十五人

赤坂辺 二十人

三田辺 八人

深川辺 十八人

本郷、小石川、市ヶ谷辺 十五人

麹町辺 十八人

合計 四百七十二人

一 明治元年調査 六百四十七人

一 明治三年調査 八百五十二人

一 明治十二年区税を課せし時の調査に 九百九十七人

一 明治二十一年 一千五百八十人

とある。其の後の調査は省略するが、漸次発展の歩を辿つて今日に及んでゐる。

芸者の祝儀、玉に就いて古き記録を探つて見ると

一 亨保十九年四月 一金二分と二百文 芸者二人

一 元文元年七月朔日 一金一分 芸者二人 一金二分 舞子二人

一 元文三年七月 一金一両二分 舞子四人

一 寛保元年七月 一金一両 芸者へ遺はす

云々とある断片的なものであるが、幾分か其の当時芸者踊子の踊代が分る。御維新当時から明治にかけて働いて居た某芸妓の話に、慶応元年から−二年の間、大名方の屋敷に呼ばれて居つた頃はいつもお極いりで金二分奉書へ包み水引をかけて下さつたもので、此の外には別に下されものはない。町家の方に呼ばれる時には衣裳の着替へをすると一分祝儀が出る。何か唄ふとまた祝儀が出る。一分の事も、二分下さる方もある。概してお武家の座敷は祝儀が少いのが例であつたと。

是は別の話であるが、天明の頃、酒井雅楽頭、親しく交遊する大名、旗本十数人招いて時折り豪侈な酒宴を開く、其の頃駿河町の芸者でお島と云ふのが、芸も客色も優れて居つたが、常に雅楽頭の宴席に呼ばれて歌舞を演じて興を添へて居た。雅楽頭三宝の上に小判を山の如く積み上げて出さしめ、自ら之を摘んで座中へ撒き散らし、宴席に侍する者共に之を拾はしむる。お島振袖をかつぎあげ這ひ廻つて之を拾ひ集める。一夕で小判六十七枚を拾つたと云ふ事が伝へられて居る。又備前岡山の池田一心斉候の如きは芸者に馳走振舞とて大根なますの中へ小判を沢山入れて之を箸で挟める丈け取つてたべよと命じたと云ふ話もある。武家の座敷でも斯る豪侈な遊振りで沢山の纏頭を散じた殿様もあるのである。