二 見番の変遷と組織変更 第四章 白山三業の組織

二 見番の変遷と組織変更

白山三業組合は前記の如く、 明治四十五年六月二十五日を以て創立されたが、 三業者の看板や権利金は時に依って高下があり、非常に危険率多く、組合幹部の意向一つで、 自由に看板や権利金に高下を附する事の出来るのは宜しくない。何んとかして此の制度を改革せねばならぬと協議一決し、大正四年三月五日資本金三万二千円の株式組織に変更、各業者より、比例代表を以て取締役及び監査役を選任、不確実な看板や権利金に対しては株式を交附し、四株を持てば、三業の内の何業でも営業が出来る事に改め、株金を流動資金として芸妓屋に立替払を為す事に決し、立替見番としての先鞭をつけ、即ち、口かけ見番を廃し、立替制度を布きて其業務を実業化したのである。

而して従来刎ね銭の積立や、その費途に付き見番は組合員から猜疑の眼を以て見らるゝ惧があり、不正不義を働かずとも、刎ね銭の積立が多ければ、役員の争奪や紛擾の囚を来す事が多くな るので、茲に組合を株式会社と改め、商法の規定に従ひ、会社法の制定に依る事が、金銭の使途を明白ならしめ、其剰余金を利益配当とすれば、此の疑問も生じないといふのが、株式会社に変更した重なる理由なのである。

斯て三業の重役一同は鋭意業務の発展を計った為め、組合時代から株式会社に変遷せる間、叩ち大正十年の春頃に至っては、取締役中に会社の営業上に関し、種々意見の衝突を来したことも あったが、他の組合に見る様な紛擾に至らず、関係者間に於て円満なる諒解が出来凡ての問題を解消したのは、当三業の為め悦ぶべき事であった。

斯て先代社長秋本鉄五郎氏は、大正十二年四月不幸病を以て歿したが、同年の大震火災後、三業界は非常の好況を呈したるを以て大正十三年には三万円二千円の資本金を五万三千円に増資し たが、新株募集に際しては、一株五十円の払込みに対し、百二十五円のプレミヤが付き、忽ち一干六十の株式が満株となるの好況を呈したのである。其後見番は株式会社組織となってから現在事務所の横手角一四六番地に移転したが、手狭とあって見番を新築する事となり、工費二万八千円を以て、現在の場所に新築工事を起し、大正十三年七月竣工、同二十五日花々敷き披露式を挙ぐると同時に移転し、今日に及んだのである。次て昭和四年八月二日一満七千円増資の件を株主総会に於ては決議したるを以て、現在の総資本金合計は七万円である。