on
四、組合組織当時の功労者 第五章 組合創立当時の苦心
四、組合組織当時の功労者
—附故人となりし各重役—
取締役高野季睛氏談
白山三業組合が始めて組織された第一回目の重役は頭取が秋本鉄五郎氏で、副頭取は私で御座いましたが、料理屋組合長は平沢春吉氏、待合組合長は松沢勘次郎氏、芸妓者組合長は荒木武一氏で御座いました。当時は組合員が尠なかつたので、誰れに相談しようもなく、家族的に相談し合つて、斯う極まつたのでした。然るに重役の選定に就き異議が起り、多少の紛擾は起りましたが、兎に角秋本氏の指名といふ事に鳧がつき、無事に治まりましたのです、其規約は荒木氏が初めて作製し、秋本頭取の功労に酬ふる為め芸妓の玉代一本に付金一銭、半玉一本に付金五厘を贈呈する事に極まつたのでした。其際秋本氏は君等にも二厘か三厘の功労金を出さうと言はれたが私は何んせ創業早々であるから、一ヶ月に五円そこヽ位であらうと高を括り、之を遠慮したのでしたが、其後追々に芸妓の数が増加して此の功労金が何百円といふ高になつたので、荒木氏は高野君夫れ見給へ、夫れだから遠慮する為と言つたのにと言はれ、跡で惜しい事をしたと笑つた事がありました。荒木氏は性磊落剛直、非常の酒豪家で、元は煙草専売局で役人をして居つたのですが、兎に角白山三業功労者の一人で、創業後六七年の間、金万と称する芸妓家をやつて居りました。今の金武蔵家の本家です。創業当時重役ではなかつたのですが、見番の隣りに栗橋から来た橋本翠雲といふ御医者さんが居り、見番に一文の金も無かつたので敷金や、葉身代などを貸して呉れたものです。矢張り功労者と言はねばなりません。現社長の秋本平十郎氏も創業当時は役員の一人として種々の事務を執られたものでした。
尚故人となつた当会社の重役には芸妓屋組合長兼監査役石原徳太郎氏、待合組合長兼取締役糸居銀一郎氏、芸妓屋組合役員兼取締役近藤春治氏(成田家の先代)芸妓屋組合役員兼取締役、鈴木力之助氏(美登家の先代にして白山芸妓屋の元祖)芸妓屋組合役員兼取締役、三枝鶴吉氏、芸妓家組合役員兼取締役、小島嘉十郎氏等が居り、孰れも白山三業発展の為めに熱心に尽力されたのでしたが、今や幽明界を異にせられたのは惜みても尚余りありと言はねばなりません。次に元当会社の重役であつた人々には、待合組合役員兼取締役の浜野茂氏、芸妓屋組合役員兼取締役須黒徳太郎氏、芸妓屋組合の役員兼取締役鈴木秀氏(現在は大谷紫友と称し、俳優となつて居る)等が居りまして、是亦会社の為め種々力を尽して呉れたものでした。