on
四、故参芸妓の昔語り 第七章 余録
四、故参芸妓の昔語り
八重子、メ吉、小糸、稲三姐さん連
白山花街の古参芸妓として嘗つては御客様連からヤンヤと喝釆された腕達者芸達者の八重子姐さん、〆吉姐さん、小糸姐さん、稲三姐さん等は何んと言つても白山草分の珍宝である。否活字引である。一夜島田支配人の肝入りで、此等の姐さん連からいろヽの昔話を聞く。
一、縄暖簾でチンドンシャン
『左様で御座ますネ、私共の御披露目をした許りの時は、白山はまだ出来たてのホヤヽで、料理と言へば縄暖簾式の処許りで御座いましたから、何んの事はない瞽女のようなもので、唯三味線をチンドンシヤンと弾いて端唄の一ツもやれば、宜しいと言つた様な風で御座いました。そうかと言つて三味線の出来ぬものは勤まらなかつたので御座います。ナゼカと申しますと、行くから帰る迄御客様が三味線許り弾かせるからです。そして其当時は、道が悪くて雨でも降らうものなら、一面泥濘みとなり、家からは足駄穿き、勿論箱屋も居りませんでしたから雨傘をさし、三味線を自分から引つ負ツて、けに尻を捲くつて駒下駄持参といふ滑稽な姿で出掛け、かね万さん辺へ行つてから穿き替いると言ふ様な訳で御座いました。左様料理店で御座いますか、料理店は柳川亭さん、万金さん、其の後ろの方に角金さん、此の上の方には駒止屋さん、吉田亭さん、武蔵屋さんは御寺に近いので精進料理などをやつたものでした。夫れから伝通院の方には魚竹さん、大正亭さんなどがありました。今日辺から見ますと、全く夢の様に思はれます』
二、三畳二間の待合さん
『左様待合で御座いますか、之れ亦御話にならぬ程貧弱で、中には三畳二間限りなく、三味線の頭が壁にブツカるといふ、丸でお話しにならぬ待合さんも御座いました。亦或る待合さんは矢張り二間限りで、奥に六畳を継ぎ足したガタヽのボロ家でした。雨でも降らうものなら、畳がピシヨヽして来る、気持の悪いツたらなかつたものです。左様開業早々には待合は僅に三軒で、磯の家さん、ふじの家さん、蔦屋さんでした。夫れは明治四五年から大正元年頃迄でした。』
三、売ツ妓と流行唄とお客
『其当時の売ツ妓と申せば千成さん、綱龍さんなどであつたでしよう。御座敷で御座いますか、左様一日に四ツか五ツ位あつたでしよう。流行唄は別に之れと言つて御座いませんでしたが、『サノサ』や『東雲のストライキ』位で、アツチヘ寄ツちや危ないよなんて言ひまして貴郎、ジヤンヽ三味線を引ツ掻き廻し、ア丶コラサなどゝやつて居れば良かつたのですからオホ丶、御話しにならなかつたのですよ。斯んな有様でしたから、当時は御客さんと言つてもロクなものは来なかつたのです、行きあたりバツタリで御座いました。』
四、呑平芸妓大助さん
『当時の芸妓には大助さんといふ大酒呑みの姐さんが居りましたが、時々酔つ払つては指ケ谷町の交番で御巡をさんに文句を並べ、よく叱られたものです。亦或る時などは暴れ廻つて仕方がなかつたので、荷車へ縄で縛りつけて家まで送り込まれた事もありました。夫れで居て御座敷などで、御客さんの膝を枕に寢て居つても、別に御座敷か掛かつて来ると、直ぐに起き上がつてスタコラと駆け出して行つたものです。腹の中は却々シツカりした処が御座いました。可愛さうに貴郎、昨年四月三十日に死んで終へました。外に一番最初の御酌としては万子さんといふのが居り、踊りのうまい人には信奴さん、一龍さん、声のよいのには小婦貴さん、芸のよいのには小妻さん、別嬪さんでは梅太郎さんなどが居りましたが、其外には、若松、力彌、栄壽、のんき、絞彌、松子、金時、君太郎、花奴、助六さんなどの芸妓が居りました。』
五、芸妓連貧苦の闘ひ
『大正三年の博覧会があつた頃は、世の中が大層不景気で御座いまして、白山は恰度火の消えた様な有様で御座いました。米屋さんは一円の米も貨して呉れず、ホンに喰はずに過した日も御座いました。此の土地が駄目なら命がなくなつてもよいと着のみ着の儘で稼きましたが、御座敷は偶にきりかゝらず、借金をしながら辛抱し、其借金を返すに十二月の大晦日迄かゝつたといふ始末、当時の玉代は二十五銭祝儀は一円でしたが、大漁はメツタになヽ、漸く御座敷がかゝつたかと思ふと、先様では夜逃げをして終まう、百にもならずにアヽコリヤヽをやつたかと思ふと、口惜しくつて泣くも泣かれぬ位で御座いました。ですから芸妓さんでも其時は大分麻布辺りへ鞍替したものでした』
六、コヽは芸妓の保護所ダ
『見番の様子で御座いますか、今日から見ると、実に滑稽な様でした。妾共が夜遅く見番に顔を出しますと、見番には高野さんや今の満壽本の且那の秋本さんが学校を出で間もないので、 小倉の袴か何んぞを穿き、コラヽ何んの用があつて今頃来たか、何んだ細帯一本で、そんなダラシない姿で来てはならぬとの見幕、妾達は可笑しいのを堪へ、茲は見番ではないですか、見番に芸妓が来るのに不思議はありますまい。と申しますと、秋本さんは真面目か顔をして、茲は芸妓の保護所だ、用のないのに入つてはイケぬとの御挨拶、無理に戸を開けて這入り込むと、ナンダ芸妓の嫌に生意気千万だと言つた様な調子で其コヂヽさ加減と言つたら、丸で裁判所や何んかの様で御座いました。亦誰々さんは未だ御座敷が空きませんかと聞ヽと、何処何処に居る行つて見ろナンてネ貴郎、そりや可笑しかつたですよ。妾達は夫れが面白ヽて堪まらず、からかい半分で毎夜の様に見番に行くと、遂々入口に金網を張つて首丈け突き出される位にして終まつた事も御座いました。唯今では妾等の仕込みで、御双人様共スツカリ軟らかになり、満壽本の且那さんは立派な角のとれた且那様になり高野さんも亦大人しい丸い軟らかな人になつたのは全く妾等の指導宜しきを得た結果ですよ、オホヽ。』
七、芸妓見物で電車の往来止
『白山に見番が出来、妾達が出た許りの頃は、客に呼ばれて家を出ると、物珍らしさに近所の人達や子守連が、ワイヽ騒ぎ乍ら跡から追つて来ると言ふ始末、ノベツに電車通りに多勢の人だかり何辺電車の往来止をやつたか知れぬ程で御座いました。当時指ケ谷町一帯には百軒長屋と言つて貧乏長屋が沢山ありましたから、尚更ら物見高かつたでありましたらう。此の時は未だランプのあつた時代で、妾等の家でもランプを用ゐて居りましたが、夕方など、点燈屋さんが変な棒を持つて点火して歩いたものでした。当時見番の屋賃が九円五十銭、妾共の住居は三円八十銭で御座いましたから、丸で夢の様で御座います。』
八、白山の好況時代
『白山の好景気時代は何んと言つても、大正七八年頃と、震災直後で御座いました、若い妓などはアツチコツチ引張り凧、夜の十二時頃往来を通ると、待合の女中さんが待つて居て引ツ張つて行くといふ大繁昌で、其忙しさといふたら目の廻はる様で御座いました。私の様な年増でも度々夜の二時頃戸を叩かれ若い妓は居りませんよといふと、妲さんでも良いから来て下さいといふ事も度々あつた位でした。たしか其頃で御座いましたでしよう、一業と二業と喧嘩して箱止めとなつた事がありましたが、その時は富士見町辺りの組合に加入しない赤の連中が来て盛んに妾等の領分で発展したものでした。』
九、蝉取り竸争と御祭銭箱
『慥か大正二年の夏であつたと思ひます、白山神社の境内で三業連中の運動会がありました。其時蝉取り竸争と言つて、例の子供達の持つ竿につけた袋を持ち乍ら、アレヨヽと樹の下蔭を駈け廻はり、或ひはスツテンドウと転ぶやら倒れるやらの大騒ぎ、御白粉をコツテリつけた姫御前のあられもない赤い腰巻、白い脛、実に可笑ひやら、滑稽やらの活劇を演じた事も今は昔語りの思出でありますが、次に滑稽な事は駒込の或るお寺に三業連が御賽銭箱を奉納するといふので、芸妓連に之れを送つて行けとの事、妾達は平常着の儘ぞろヽと其跡から揃つて行つたのでしたが、お寺の方では沢山の芸妓逹が美しい粧ひで来るであらうと舞台迄拵しらい手踊りの一ツでもやつて貰はうと待ち構へて居つたのですから、近所の評判は大したもの、平常着の妾達を芸妓だとは思はず、往来の群衆は何んだ芸妓が一人も来ないではないかとの囁き、随分と失敬しつちやつた事も御座います。』
一〇、長久亭の出演
『其当時、今の白山閣の処に長久亭といふ小さな寄席が御座いましたが、妾逹は此の寄席で手踊りをやつた事がありました。どう言ふ風の吹き廻しか大愛な大入り、御客さんはヤンヤヽと喝采する、場内は破れん許りの人気で御座いましたが、此の寄席には東京ではパリヽの花井お梅さんも出演した事も御座いましたが、只今では、此の寄席は影も形もなくなつて終へました。』