島原

市街の西南端にして七条通北寄り、市街電車『島原口」下車西へ真直に約三町。 省線(山陰本線)は丹波口駅下車、京都駅から一・二哩、五分間、賃五銭、汽車は殆んど島原遊廓に横附の態である。

祇園・島原・撞木町……と謳はれて、どんなお上りさんでも島原の名を知らぬ者はなく、また国さの土産話に島原を見ないで帰るものも少からう。 同時にその寂れ方に一驚せぬ者も無いとおもふが、むかしの遊廓といふものを形だけでもそつくり其の儘に残して居るのは、日本ひろしと雖ども此所ばかり、さすがに京は京やな。

今日の島原

電車を降りてまつすぐに西へ約三町、場末めいた町を歩いてゆくと、普通の町家の間に交つて小料理屋や仕出し屋、すし屋、うどん屋などが漸やく多くなつてくるのは矢張り場処柄である。 突当りに寺の山門のやうな大門があつて、傍らにお約束の柳の古木が一株、房々と緑の枝を垂れてゐる。 但し見返り柳とは呼ばず「出口の柳」である。 廓内は中之町、上之町、中堂前町、太夫町、下之町、揚屋町と六箇町に分れてゐるが、これが島原かと怪しまれるほどの寂しさ、素見客の出さかる時刻にも人の往き来は稀れで、中央の柳と桜の並木に沿ふてゆくと、ところぐにある薄暗い行燈の蔭から、ちょいとちょいと婢が客を手招きするなど、曾ては夜々の蘭燈に不夜城をあらはし、才情双絶の名妓雲のごとく群集せる島原の格式も絲瓜もあつたものではない。

で、今日では只通人てふ種類に属する一部の人々が、丁度盆栽や骨董品を愛するのと同一の趣味から、古色蒼然たる島原情調を説くの外は、たゞ博物館に陳列し得ぬ記念品として見物がてらゆくのが主で、客は大抵東京或ひは阪神地方からの旅客である。 従つて多くは有名な家をのみ志す。 此の遊廓草創以来二百七十年間連綿としてつゞいて居る旧家「角屋」の如きは、霜枯れと称する二八の月でも、客は殆んど満員で、忙しい月には両三日前がら申込んで置かなければ座敷がないといふことだが、末輩の揚屋に至つては前格子に蜘蜘の巣を張つてゐる有様。

以上が即ち「今日の島原」である。

花魁に三種あり、即ち「太夫」「伯人」「娼妓」で、次に芸妓。 島原ではかうした席順になつてゐる。

代表的揚表 

角屋、松本楼、輸違屋。

角屋が一番古い青楼であることは已に述べたが、楼主中村徳右衛門氏は曾て「花あやめ」と題する小冊子を発行して、自家の歴史を公表したことがあり、松本楼主の松本芳之助氏は藪之内波の茶人である。 輸違屋は近年再興された青楼。

島原気分

私の行つたのは角屋であつたが、太い格子づくりの間口の広い—長屋門のやうな古風な二層楼で、ずつと昔吉原の大文字楼へ行つたとき、当時の農商務省に彷彿たる西洋建築にをどかされた私は、こゝでは武家屋敷の玄関然たる式台にちよつと荒膳をひしがれた。 内玄関には赤の漆で太夫の名を記した黒漆の長持が幾つか並べてあつた、それは太夫が揚屋入りをするとき、夜の物から枕箱、煙草盆に至るまで、一切の調度を入れて、男衆にかつがせて、(二人、さし棒)くるものださうで、今日も矢張り昔通り行はれてゐるのだ相である。 尤、こゝらが鳥原の生命であらう。

玄関から座敷へ案内される時の心持は、まさに寺の御堂を通つて位牌所へゆくといふ感じであつたが、若い仲居が歯を黒く染め、青く眉毛を剃落として、赤前垂れをして居るのは、艶にうつくしく感ぜられた。

大きな二台の燭台に白蝋の灯をともして、座敷の中央に置いた。

それで漸といくらか座敷が明るくなつたが、三十畳も敷けやうといふ大広間の隅まではとても光りが届かない。 金地や銀地に描いた襖や袋戸棚の古い極彩色の絵が半ば剥落して、さながら昔元禄時代の全盛の名残りを偲ばせる美くしい残骸の如く、薄暗い紙燭の火彫の彼方から此方を窺つてゐるかのやうにおもはれる。

そこへ小さな婢衆が入り替り立替り、煙草盆や茶器、酒宴の道具を運んでくる。 やがて型の通りに年増の芸妓に若い妓、それから舞妓がくる。 一巡盃がまはつてゐる頃、廊下の方から人の来る衣ずれの音がして、向ふの薄ぐらい入口に立てた大きな衝立の脇から、花櫛や笄を一ぱいに飾つた京風の立兵庫に、金絲銀絲で剌繍つた大裲襠の裾を擦りながら、華美な大模様を染出した前帯を高く胸のあたりにつき出すやうに見せて、静々と座敷の中に進んで来た。

本当ならそこで太夫のおかしの式といふのがあるのだが、それは省いて一通り簡単な酒盃の交換があつて、やがて太夫は下つてゆく。 このおかしの式といふのは詰り引付のことであるが太夫を揚屋に貸すといふことから起つたのだといふ。

太夫が薄暗い座敷の中から向うの衝立のかげに姿を消してしまふと、座持の老妓は膝の脇に置いた三味線をまた取上げて、『さあ、何かひとつ聞かしてとくれやす』。

そぐはぬ気分

森閑として御堂のやうな大広間、黒光りのする金屏風にゆらぐ白蝋の火影は頗る古典的で祇園や先斗町の明るい電燈の下で飲むのとは、又おのづから変つた気分があるけれども、その情調なるものがどうもピタリと私達の胸には来ない。 さうした情調に浸つて見たいといふ心持は充分持つてゐても、我々の心は最早さうした空気とは融合しない迄に離れてしまつてゐるのか?。 その点もあらうが、しかし主因は、寧ろ其のクラシカルな気分の核心であるべき花魁そのものが、現代式な安女郎であるが為ではなからうか。 曰く、『チョンチョン格子が河岸店にでも居るやうな越後者の在郷者に、どんな金絲銀絲の裲襠を着せて坐らしたつて、引立たないばかりか、却て厭な気持にならしめる。 それに女の心持が極度に卑しく、初会の客に無理に祝儀を強請つたりするのは、同じ京都の遊廓でも、祇園あたりの太夫にはないことだ」と。 古野、大橋、揚巻、夕霧なんどいふ昔の名妓が地下で聞いたら涙をこぼすであらう。 —などゝ月並を言ふ訳ではないが、又客が客なる今時に、太夫にばかり諸芸作法を心得た美人を求めても無理であらう。 要するに島原の古典的な気分も容物だけのことと知るべきである。 翌朝、お座敷拝見といふやつを誰れでもやる。 案内の小婢が先に立つて、網代の間から始めて翠簾の間、扇の間、草花の間、馬の間、孔雀の間、八景の間、梅の間、青貝の間、檜垣の間、緞子の間等々。 いづれも襖、障子、額、軸物、天井、地袋に至るまですぐれた書晝を貼つたり懸けたりした室々を、明いてる処を見て廻るのだが、蕪村の「夕立山水」、「応挙の「少年行」などを筆頭として岸駒、雲谷、洪園、常信、大雅堂等の大家がズラリとならんでる処は、さすがに元禄時代の豪奢な遊蕩の面形が偲ばれぬでもない。 就中青貝の間といふのが一番立派で、四周悉く螺鈿を篏してあつた。 庭前にある「臥龍の松」も有名なもので、此の家の長松楼といふ屋号はこの松から来てゐるといふ。

名物「太夫道中」花も漸やく盛りをすぎた四月二十一日に毎年行はれる。 此日は午前中に大門が閉るから、見物人は朝早くから弁当持参の一日がゝりで出かける。 両側の家の階上階下は勿論、中央に太夫の通る道幅だけを明けて、路上に蓆や茣座を敷いて坐りこんでるところはまるで御大典拝観の騷ぎそつくりである。 それで道中の始やるのは欠仲も品切れになつた午後の三時過ぎ。 先づ八名の芸妓に依つて曳かるゝ花車がやつて来て、次で禿二人を露払ひとして太夫は右手に裾を持ち、左り手は斯う懐中に入れて、例の三枚歯黒塗の高下駄を素足に穿いて、カラン、コロン、外八文字を踏んでやつてくる。

髪は立兵庫もあり、横兵庫もあり、勝山もあり、いろいろである。 「曳舟」と名付づくる介添が付添つてゐて始終着付などを直してゐる、後ろからさし傘を持つた男がつゞく、道中は二丁足らず、出場の太夫は年々の編成の都合にもよるが大抵十五六名から十七八名である。 最後に善美を盡した真打の太夫が八人の禿を連れて、数万の瞳をながし目に、○々娜々として練つてゆく。 これを「傘止」と云ひ、傘止めに出れば爾後間もなく、屹度落籍されるといふ伝説が、昔から此の里には信ぜられてゐる。

島原遊廓の歴史

序だからざつと書かう。 こゝは元朱雀野の一部で上古鴻臚館の在つたところ、後ち歓喜寿院といふ寺の境地となり、今でも西口の畠の中に字「堂の口」と呼ばれる処が残つてゐる。 京都の遊廓は応永の頃(足利義満時代)九条に設けられたのが濫觴で、「九条の里」と称して居つたが、応仁の戦後二条万里小路に移し、ついで地皇居に近いといふので復た新町西洞院の間六条の北に移したが、寛永十七年都市の発展につれて遂に現今の地に移され、廓内を六区に別ちて「西新屋敷傾城町」と称してゐた。 それを島原と呼ぶやうになつたのは、当時恰かも肥前島原に天草の乱があつて天下騷然たり、此の遊廓移転問題についても非難が多く、京洛の物情騷然たるものがあつたので、戯れに「島原」と異名したのが、ついに本称となつてしまつたのである。

嘉永四年に大火があつて、僅かに揚屋町を残して全廓殆んど烏有に帰してしまつた。 それで一時祇園新地内へ移して仮営業を許可した。 その頃から祇園が盛んになって、島原は衰へて来たのである。 それは移住した者が淋しい島原へ還ることを嫌って、半分も帰っては来なかったからである。