on
新橋
区域
「銀座通」の内新橋寄り銀座七、八丁目から西銀座六、七、八丁目に及び、西は外堀端、東は三十間堀川を越えて木挽町、築地方面に亙る一帯の地。
新橋の花街
は元は烏森と一つの花街で、京橋と芝の区堺である「新橋」(橋の名)を真ン中に、煉瓦地芸妓・南地芸妓と芸妓街は二つに分れてゐたが出先きは全く共同で、恰も今日の下谷池の端と同じやうな態であつたのが、大正十一年分離して「新橋」及び「烏森」−或は新橋南地の花街となつたものである。
明治初年流行の「かいヽ節」に、「さても開化の御代ならば、カイヽづくしで申します、当世流行は演説会、国会書写会親睦会、内国博覧大会に、浅草奥山撃剣会、北海道には開拓使娼妓は苦界で鯰(官吏)は猫(芸妓)買ひ…………』と謡はれた通り、王政維新、明治政府の樹立とゝもに頓に眼立つて来た現象は、社会諸制度の改革もあつたが、まづ田舎武士あがりの官吏の専横、宴会の流行、及び之に件ふ芸妓の台頭であつて、幕末以来一時火の消えたやうだつた全市の花街は、一斉に活気を帯びて来た。 旧花街の死灰が俄かに燃えはじめると同時に一方には新らしい花街も続々と生れた。 或る時は政府みづから遊廓を設置したりもした。 この機運に乗じて、帝都の玄関口である新橋駅に近く、叉諸官署にも遠からぬ地の利を選んで進出したのが我が新橋花街であつて、忽ち政府大官連や政商連の遊興の根拠地となつた、明治大正花柳史には其の名を逸することのできない伊藤、桂、西園寺その他等々、皆その根拠を新橋村に置いた。 「待合政治」なるものは実に此の花街から始まつたのであり、且つ今日尚ほ其の跡を断たぬ待合政治の本場は、依然として此の里である。 新橋は明治の新政府と倶に超り、倶に発展して来た花街であると言つて、誤りでなからうとおもふ。 客種の良いといふことが何物よりもの強味で、どしヽ数も殖えれば、美人も集まつて来た。 芸にも力を入れるし、気品を保つことにも大いに努力して来て居る。 柳橋と併せて東京の代表花街とせられるが、もし二者その一を選ぶとすれば、柳橋でなく矢張り新橋を推すべきである。
今日の新橋
芸妓屋二百四十三軒、芸妓約六百五十名。 料理屋九軒。 待合百六十軒。
これを昭和元年度末の芸妓総数七百三十余名に比すれば、約八十余名の減少であるが、昨今は復大分増加して居るらしいから、先づ七百名内外といふのが此花街の常時芸妓概数と見ていゝであらう。 芸妓屋としては「森川家」最とも有名で、新橋花街と森川家は切つても切れぬ関係にある、現に芸妓組合の頭取で演舞場の社長を兼ねてゐるが、多年新橋芸妓の技芸、妓品の向上、及び芸妓屋側の勢力維持に努力し来たり、叉現に爲つゝある功労は沒すべからずである。
抱妓の多いのでは菊村、富田家、浜大和、花増家、徳森川、金三升、中菊等を挙ぐべきだが全体の四割強は自前の芸妓である。
花街区域は冒頭記載の通り西は外濠端から東は築地十丁目まで約十二丁、南北亦五六丁といふ広い面続を占めて居るが、芸妓屋は銀座の電亭線路を挟んで東西両裏通りに集中し、三十間堀川以東には一軒もない、即ち銀座街の西裏である「金春通」、その西なる「仲通」、それから大通を一つへだてた「板新道」に各五十軒内外、少し北に離れて銀座西六に六七十軒、銀座街の東裏なる「信楽新道」に卅五六軒。
これに反して料理屋・待合は此の方面には甚だ少なく。 両方併せても漸やく四十軒位のもので主なる出先きは三十間堀川を越えた向ふ側の木挽町八、九、十丁目及び築地一、二、三丁目に亙つて総数の四分の三は此の方面に集中してゐる。 それで芸妓券番は銀座西八丁目にあるが、「第二券番」と称する組合の出膜所を木挽町九丁目に置いて出先きの便を計つてゐる。 尚ほ烏森にある相楼家、本住吉といふ二軒の待合は新橋芸妓の出先きで、この二軒は烏森花街の中に在りながら、烏森芸妓は遠出でないと入らない。
且この里の制度で他とちよつと変つてゐるのは、他の花街では大抵芸妓屋・料理屋・待合が三業組合を組織してやつて居るが、新橋は芸妓屋組合と五業組合の二つに別れて相対立してゐる。 今一つは、抑もその「五業組合」なる制度からして面白い、所謂五業とは料理屋・鳥料理・鰻屋・待合・及び遊船宿を指すのだが、現在に於てはすでに箱の入る鳥料理及び鰻屋は一軒も無くなり、遊船宿は兵庫屋、中村屋の二軒だけ残つてゐるが、船などは一艘も持つて居らず事実は普通の待合茶屋と何等異るところはない。 然したとへ名儀だけにもせよ、今に遊船宿の名を継承して変へず、また事実は料理、待合の二業にすぎないものを、昔のまゝ五業組合と称して居るなどは、至極おもしろいではないか。 —但お隣りの新当町も五業組合制になつてるやうだ。
主なる料亭
と言ても芸妓の入る家は総計九軒で、数こそ少いが流石に大物が多く、花月楼(銀座七)新喜楽(築地三)八百善(築地二)錦水(築地三)こゝ等あたりになると何れを二ーと順序はつけ難い、花月は女将の愛嬌と五分も隙のないサーヴイスでめきめき売出した家で、元は一と言つてさて後に続く家の無かつた新橋の代表的料亭、現主平岡権八郎氏が当代有数の洋書家であること、先代得甫氏夫妻が鶴見に遊園地「花月園」を経営しつゝあること等は余りに有名な事実である。 新喜楽は曾て「東京三おきん」の随一として名高かつた女傑伊藤きんの経営してゐた待合新喜楽の跡で、現在では新橋切つての全盛ぶりを見せてゐる。 八百善は江戸時代から定評のある歴史的な割烹店、震災後浅草から移転して来たもの。 錦水また東京に於ける今日の日本割烹では、一二に指を屈せられる家である。 料理は落ちるが松本楼(尾張町二)も新橋では古い家で、且つ此の花街には矢張り無くてならない会席料理であらう。 薄茶料理の富貴亭(三十間堀二)博多水たきの筑紫(築地三)京都料理の池田(築地三)ふぐ料理の佐久間(銀座八)など何れもそれで特色を発揮してゐる。
主なる待合
最も著明なるものゝみを挙げても、金田中(木挽町九)蜂龍(木挽町九)蜻蛉(築地三)田中家(木挽町九)瓢家(築地一)これに続くのが河内屋、山口、音羽、新柳、清水(以上、木挽町九)竹富久井、大竹(以上。 木挽町八)布袋家(築地二)喜ん楽、あさ岡、芳田川(以上、築地三)木住吉(烏森五)などいふ所であらうか。 木挽町九丁目は即ち新橋演舞場の在るところで、此あたりの裏通りは殆んど凡てが待合横丁といった態。 夜の九時から十時頃は主人を待つ自動車の十台や十五台、づらりと併列してゐない夜は無いほどの全盛ぶり。
遊興制度
震災の直後、従来の如き七面倒な玉祝儀制度はもう時代後れだ、今後は宜しく時間制度に拠るべきであると主張したのは、他の何処でもない此の新橋であったのだが、すでに市内十二三筒所の花街でその時間制度が採用されてゐる今日、言ひだしべいの新橋が旧態依然として『時代おくれ』の玉祝儀制を採ってゐるのだから可笑しい。
芸妓代は別表の通りで、招聘代の高い点でも新橋が日木一である。
特別祝儀の利くのは無諭三流以下の妓で、昔はずいぶん安直なのも居たが、今日は他土地に較べて非常に高く、薄利多売主義の一般的傾向とは全然反対に出てゐるのも、いかにも新橋らしい行き方である。
之に反して待合の席料は莫迦に安い土地で、一二流の家で三十人位の宴会をするとして、席料二十円、女中の祝儀十円位のものであらう。 加之此土地では祝儀や箱丁料に就ては割戻しがなく、手数料の取れるのは玉代のみであるから、食物を取らないで酒ばかり飮んでる客は、待合では甚だ儲からない。 近年待合で「お膳座敷」といふものが行はれる、仕出し屋から一品二品と随時好みに応じて料理を取るのでなく、予め客の註文に依って、八百善或ひは錦水などいふ有名な料理店を出張せしめて、料理をさせる方法で、諸器物に至るまで一切を其料理店から運んでくる。 現在新橋には此の「お膳座敷」をする待合が二三十軒はあらう(此方法は他の花街にも漸次流行し始めて目下全市を通じて五十軒位ある)。
名物「東をどり」
毎年四月新橋芸妓に依って行はれる「東をどり」は、今や東京の花街唯一の名物行事となって、正に京都の都をどり、大阪のあしべ踊と匹敵すべきもの。 東会なるものは長唄・清元・常盤津は勿論舞踊、鳴物に至るまで各派の芸にすぐれた土地一流の芸妓を以て組織せられ、すでに震災前から毎年歌舞伎、帝劇等の大劇場を借りて公演し、「芸の新橋」の気を吐いて居ったが、彼の大震災の直後にも『復興は先づ芸より』と唱へて、其の年の十二月早くも災後第一回の復活公演を行ひ、且つ純益金を挙げて罹災に寄附するなど、大いに新橋芸妓の気前を見せてゐたが、遂に百余万円を投じて専属の演舞場を新築し、大正十四年以後は此の演舞場で開演することになつた。 これは確かに新橋花街の大きな誇りである。