浜町

両国橋から下流新大橋を経て中洲に至る大川の右岸一帯の地域。 市街電車は築地—両国線の「浜町」停留場を最も便とし、米沢町附近は両国停留場、中洲町は猿江線の「浜町中之橋」下車が最も近い。

「矢の倉」「浜町」「中洲」と別々に呼んでゐるが、便宜上こゝには浜町なる総称の下に一括しておく。 即ち浜町一・二丁目電車線路を挟んだ両側の裏通りを中心として、北は矢の倉、薬研堀米沢町に及び、西は久松町、南は浜町三丁目から中洲町に亙る広大な区域で、この間には芸妓屋こそ一軒もないが、約百六十軒の料亭および待合があつて、柳橋・葭町両芸妓の共同出先きとなつてゐる。

これを細別すれば、米沢町待合十一、矢の倉料理三・待合四、久松町料理丁待合九、薬研堀料理一、浜町一丁目料理一・待合四十八、浜町二丁目料理一・待合七十一、浜町三丁目料理一・待合五、中洲町待合十。

即ち柳橋芸妓は浅草代地を本拠として此地へ出稼ぎ、葭町芸妓は蛎殻町二三丁目を本拠として此地に出稼ぎつゝあるもので、つまり「入会地」であるが、その境界線は、北は両国線の電車線路、南・西は浜町川を以てかぎりとし、葭町芸妓は右線路を越えて北には入らず、柳橋芸妓は叉浜町川を渡らない。

料亭にも、待合にも優秀なものが多い上に、数からいつても圧倒的多数を占め、柳芳いづれの芸妓に取ても大切な出場所となつて居る。

遊興制度

客に取ては、柳橋からでも芳町からでも自由に芸妓のよべる点が、便利でもあり叉興味でもある。 それに長い間の共同出先であるから、両芸妓の関係は極めて円満で、同座しても座が白けるやうな憂ひは毫もない。 但し芸妓代は各組合の規定に依つて支払はねばならぬから、その間多少の差がある。 別表の「柳橋」及「芳町」を参照。

主なる料亭・待会

料理屋では矢の倉の福井楼、生稲、浜町一の浪華家、浜町三の野波、薬研堀の大叉。 待合では浜町一の御半、藤家、富久家、浜町二の喜代川、浜町三の喜文、稲葉、久松町の富田屋などを挙げやう。 その他浜町一の浜村、浜町二の一三五家、登代田、久松町の山登、中洲では富久井筒、元富久井、中村、松本など何れも好い待合と云はれてゐる。

「喜文」は料亭岡田のあとで、三十人位までは宴会もできるし、福内に茶席があり、叉田舎家風につヽつた離座敷などあつて一寸郊外へでも出たやうな静かな気分を起させるところ、代表的でそして毛色の変つた待合といふべきである。

矢の倉の「福井楼」は三百畳の大広間を誇る会席料理屋で、東京にも是れ以上の日本式大広間は無い。 「野波」は福井楼の妹が経営して居る家で、こゝもなかヽ座敷は佳い。 電車通りの「生稲」も古くから聞こえた料亭で、大川の夜景を一と眼に見渡した眺望が生命であらう。 その街路下に「たから亭」といふ船料理がある。 どういふ訳か東京には船料理が流行らないが、彼の趣味が東京の人にわからないのは遺憾である。 芸妓は入らないが「花長」の座敷天ぷらは、東京名物のひとつに数へていゝ。