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芳町
日本橋区内東部に位蘆し、東京駅から東へ十五丁乃至十八丁。 市電電車は築地−両国線又は土州橋−千住線の「水天宮前」或ひは「人形町」停留場で下車する、近きは半町以内遠きも二三町を出でぬ距離にある。 別項「浜町」をも参照せられたし。
すつきりと灰汁抜のした芸妓といへば、先づ芳町・柳橋を連想せしめるほど下町情調を代表してゐる花街で、柳橋芸妓に杜若のふかき彩りありとすれば、芳町芸妓には百合に似たかほりがあると云へやう。 粋とお侠を共通性としながらも、其の間自然に柳橋は柳橋、芳町は芳町としての異つたカラアがあり、情味がある。 所詮芳町は芳町なのである。
芳町の歴史は頗る古い
東京では一番古い歴史を有つ花街である。 家康入府の後間もなく、庄司甚右衛門といふ者が幕府に請ふて、蘆・荻・真菰の茂つてゐた葺屋町辺の沼沢を埋立て、柳町・鎌倉河岸その他等々府内に散在せる娼家を集めて元和三年(三百十五年前)始めて傾城町をつくつた、それが即ち「吉原」の起原で、今日の日本橋区新和泉町・高砂町・住吉町・浪花町のあたりだといふ。 明暦三年の大火に類焼して移転を命ぜられ、現在の位置に移つて「新吉原」となつたのであるが、其の跡地は矢張り私娼窟となつてゐた、踊り子時代には踊り子が居り、芸者ばやりとなれば芸者に転栄し、兎にも角にも元和以来引つゞいての色里であつた。 幕末の慶応二年頃には二十四人の芸妓が居つたといふ、大体に於て当時の形勢は、柳橋と霊岸島の間に挟まつて押されて居たらしいが、隣接の蛎殻町が米屋町となつて以来、俄然活気を帯びて来て、今日では柳橋霊岸島を合しても及ばぬほどの繁栄ぶり、殊に其の重心が旧来の本拠た る浪花町、住吉町から蛎殼町の方へ移って行ったのも自然の勢であらう。
今日の芳町花街
「芳町」の花街といふは、明治座際浜町川に架した小川橋から人形町通りに出る電車線路の両側即ち高砂町、浪花町、新和泉町、住吉町の各裏通り、元大阪町の一部、及び水天宮を中心とせる蛎殼町二丁目三丁目の裏通り一帯を称するもので、芸妓見番は住吉町にあり、芳町といふ地名の処には却って一軒の芸妓屋、待合すら無いといふ妙な態になってゐる。
現在芸妓屋 二四〇軒。 芸妓 約七〇〇名。
料理屋、待合合して 約三〇〇軒。
と、いふのが数学上から観た「今日の芳町」であるが、三百余軒の出場所の中百六十軒は、別項「浜町」に於て述べた通り柳橋芸妓との入会地で、これを控除すれば残るところ約百四十軒。 その中料理屋はほんの五六軒で他は全部待合だ。 これを町別にすると蛎殼町二丁目。 同三丁目、浪花町、元大阪町、住吉町、玄冶店等であるが、総数の約三分の二は蛎殼町二三丁目の裏通りに集中し、二百四十余軒の芸妓屋の中五〇%強はこれ亦蛎殻町二丁目にあって、当花街の重心が著しく蛎殼町の方に片寄って来て居ることを誰しも否定ができない。 で、東京人の中でも粗忽かしいのは、蛎殼町と芳町とは別の花街だと思ってる。 或ひは、蛎殼町と芳町を同じ花街だと思ってる粗忽者もあると言った方が、一層適切であるかも知れない。 蓋し蛎殼町と芳町とは一にして実は二、二にして実は一、芸妓屋組合は一つだが、出先きたる料理屋と待合の組合が二つに分れて玉代が異って居るのだから、甚だ以て異様なかたちである。 これは一時蛎殼町に全盛を極めた「大正芸妓」とその出先きとが「芳町」に合併した結果で、今日は合併当時ほど両者の間に截然たる区別はなく、一二流の芸妓も或る一方の出先きを嫌って出入しないといふやうなことは無くなったが、それでも未だ家によって、出入りする妓品や遊びの気分に相違がないとは言はれない。 七百余名といふ多数の芸妓は実に玉石混淆で、その中には真正の芳町芸妓と言へないやうなものもある。
主なる料亭と街合
料亭では新葭町の百尺、茅場町の喜可久(元の草津亭)この一一軒を除いたら、あとは良いにも悪いにも、住吉町に和可浦、蛎殼町に八新亭、他には−二軒の鳥料理がある位のもので、甚だ料理屋に乏しい花街である。
待合は沢山あるが是がまた団栗の丈くらべで、玄冶店の浜田家の外には、蛎殻町二の裏に初の家といふ一寸大きいのが一軒あるだけ。 芳町芸妓のおもなる出場処は浜町から中洲方面へかけて一帯の地域である。
三百十三軒の料理屋と待合は、左の二組合に分属してゐる。 その所属を一々こゝに列記する ことはとても出来がたい事だが、大体に於て蛎殼町方面が「料理待合組合」と称する方に属し、その他及び浜町方面は「二業組合」に属するものとおもへば先づ間違ひはなからう。
特別祝儀の利くのは勿論三流以下で、五円、十円、十五円、廿円乃至三十円。 待合の席料は一二流の家で三円乃至五円、三流以下になると一円・二円といふところ。 但し蛎殼町へんには随分安い家があつて、どういふ計算法を用ゐるのか私には迚も判断はつかないが、只の五六円 で遊ばせる家があるといふ話である。