日本橋

日本橋区の西部、外濠の方へ寄つた部分で市街電夢は外濠線の「呉服橋」叉は「上槇町」日本橋通線ならば「通三丁目」下車。

外濠線の八重洲橋と呉服橋との間、電車線路に沿ふた東側檜物町を中心として旧上槇町、数寄屋町、元大工町に亙る一曲輪(今は呉服橋三丁目)で、時に表通りに御神燈を出してる家もあるが、多くは裏通りの路次に、芸妓屋譬待合ひさしをならべて文字通りの狭斜街を成してゐる。

現在芸妓屋 一〇〇軒。芸妓 約二五〇。料理屋 九軒。待合 五十一軒。

東京の花街としては、その規模大なりといふことはできないが、商業地帯の中心たる日木橋を控えて大問屋及び大商店の且那衆や番頭衆、附近の会社員を主なる華客とし、柳橋・葭町あたりと肩を並べて先づ一等地として推される花街である。

その妓風と情調 

日木橋元吉原の遊廓が解体して三箇所に分れたとき、その大部分は浅草の新吉原に移り、一部分は新柳町に行くし仲の町(今日日本橋仲通り)に在つた部分はそつくり旧檜物町附近に集つて、別に新らしい花街をつくつた、それが即ち今日の日本橋花街である。その後また深川が瓦解すると、その一半は柳橋に流れこみ、一半は此地へ移つて来た。かく花街としての歴史も相当古い上に一時大江戸を風靡した侠仕立の深川染、羽織芸妓の血と意気とを伝統し、加ふるに魚河岸を控えて居た所為もあらう、張の強いことは此地を以て第一とし平素は至つて地味で派手をこのまず、着物に譬へればちよつと結城紬と云つた感じのする妓風のところだが、一肌脱ぐとなると利かぬ気の気性はさすがに江戸の真ン中の芸妓らしい気分を偲ばしめるものがある。飽くまで下町風で多少でも昔の町芸妓気質の残つてるのは先づ此地らであらう、従つて官吏とか政治家には向かず、叉よくしたものでさうした客は余り此土地へ足を入れない。

西河岸の地蔵さまの縁日に、草花や金魚鉢の涼しく並んだ間を、お座敷がへりの半玉が、うすものゝ派手な長い袖をひるがへしてゆく美くしさは、さすがに花街らしい風景。日木橋の夏の夜の涼しさは其処から湧くかとおもはれる。

料亭と待合

例に依つて主なる家を挙ぐれば、料亭では千とせ、やまと、とよ田、浪花家、春日、喜可久、一葉、和田安など。待合では中井、布袋家、初大阪、千松倶楽部、仙月、お峰、久本、藤村など。

右の内千とせ(通り三)と浪花家(呉服橋)は上方料理で、やまと(橋呉服橋三)にとよ田(呉服橋三)は江戸料理であるが就中やまとの主人は、元蔵多家の板前をして居た人で、蔵多家没落の後独立して料理屋を開業したのであるが、会席料理にかけては東京屈指の一軒で、座敷も百五十畳敷の大広間を有し、今日では土地一流の大料亭である。春日は贅沢料理で知られ、和田安は蒲焼屋だが普通の料理もでき、軽便なのでなかヽ繁昌してゐる。喜可久は南茅場町に在つてちよつと距離が離れてゐるが、こゝと待合の二見家は遠出にならず、日木橋と葭町と両方から芸妓がはいる。

芸妓は入らないがもみぢの座敷天ぷらは当花街の名物と云つてよく、鳥料理の末広は東京を通じて第一指に折られる家で、殊につまみに出す青豆が名物である。  

遊興制度 

芸妓代は別表の通り。