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神楽坂
牛込区神楽坂上の毘沙門天を中心とした一区画で、市街電車外濠線の「牛込見附」或ひは神田橋—若松町線の「肴町」停留場下車、距離は一丁乃至三丁。 省線電車ならば「飯田橋」駅下車牛込見附口の方へ出て、市街電車路を横切つて神楽坂を上つてゆく。 神楽坂は自動車の通行を禁ぜられて居るため、此の地の待合には自動車の横付にならぬ家が多い。
神楽坂の花街
牛込見附から所謂神楽坂をのぼつて、その坂上から肴町停留場に出る間の左右両側の裏手一円が「神楽坂」(別称牛込)なる花街で、町名にすれば神楽坂三丁目、上宮比町、肴町、及び若松町の四箇町に跨がつて居るが、面積にすれば縦横ともに三町に足らぬ区域、そこに百六十余軒の芸妓屋と、十六七軒の料理屋及び百三十軒の待合茶屋がある外、指定地外の津久土町と白銀町に各一軒の待合がある。 花街の地形にもいろヽ特色があるが、神楽坂とくると、花街の中に山あり谷あり、傾斜した細い通りは而も曲りくねつて、突当つたかとおもへば裏へ通じ、抜けたかと思ふと豈計らんや復た突当る。 この間に前記の如く多数の料亭、待合芸蚊屋三業が仲よく雑居して軒を並べ—と言ひたいのだが、平家と三階建が隣り合つたり、同じ二階でも右と左は段々になつてゐたりして、跋者の二人三脚じみて頓と落付がなく、それが文字通りの狭斜街なのかもしれないが、恰かも玩具箱を引つくりかへした様な感じの土地で、一面また八幡不知の如き感じもないではない。
こゝは昔から、花街にふさはしがらぬ政党干繋のこんがらがつた土地で、長い間旧劵(牛込券)新劵(神楽坂券)の両派にわかれて、ひとつ土地でありながら宛然二つの花街であるかの如き観を呈してゐたが、一昨年あたり目出度く手を打つて一丸となり、数の上から言つても常時六〇〇名内外の芸妓を擁する市内二流どころの大花街を形成するに至つた。
主なる料亭
末よし(神楽町二)常磐(神楽町三)梅月(津久士町)なぞを一流とし、次いで魚徳(神楽町三)紀ノ善(神楽町一)よし新、水文、橋本など。 それに支那料理の陶々亭支店。
主なる待合
由多加、梅林、玉の井、楓月(以上神楽町)松ヶ枝(若宮町)重の井(肴町)喜久川もみぢ、福仙(以上宮比町)御歌女(若宮町)中村家(津久士町)。 その他小松、住の江、幸楽、かぐら、梅村など。
花街情調
尾崎紅葉の全盛時代、吉熊といふ料亭があつて、よく其処で硯友社一派の会が行はれたさうだ。 爾来文士とは可なり縁の深い士地で、以前は文士の遊び場とされたものだが、今日は最早さうした特色は持つて居らぬらしい。 兎に角旧市内では屈指の安い遊び場で、従つて客筋も雑多である関係もあらうが、構えも堂々として設備も相当整つた待合であり乍ら、初会の客には遠慮なく前勘を当るといふやうなことを平気でやる。 同時に客の方にも、高等出来合らしい洋服を着て熊の皮の上にどつかり、靴下の踵の破れがちよいヽ顔を出すのを気にしながら座つてるのもあらうといふ訳。 近年はなかヽ進歩して、一現客は上げないなどゝいふ待合も二三軒は現れて来たが、『待合の街頭進出! 絶対安直、その勉強ぶりを電話でおきゝ願ひます。 全芸妓の写真完備』などゝ、女郎屋と間違はれさうな新聞広告をしたりする家のあるところが、矢張り神楽坂でなければ味へない気分なのである。
鳥料理の「川てつ」は箱の入らぬ代りに、女中に澁皮のむけたのを集め、田原屋の洋食と相俟つて、市内でも相当きこえた家である。 その他鰻の島金、座敷天ぷらの「にしき」、小料理の喜仙など皆相当にうまく食はせる。 神楽おでんは此地名物の随一で殊に酢だごと来ては天下一品の定評がある。
賑やかなのは毎月寅の日の毘沙門の縁日、平日でさへ肩摩轂撃そのものである坂の上は、唯もうゆらヽと人波に揺れてゐる中を、美しくばつと色どつてゆく半玉の姿がいかにも花街らしい。