四谷荒木町

市電新宿線の「伝馬町二丁目」又は「塩町」停留場下車、いづれよりするも距離は三、四丁、丁度その両停留場の中はどから北へ折れて入ってゆく。

別称を「津の守」といふ。 四谷区荒木町二十七番地とそれに隣接せる十五、六、七、八番地及び二十六番地の各一部を限った区城で、そこに八十軒の芸妓屋と六十軒の待合がゴタヽと目白押しに軒を並べた文字通の狭斜街。 芸妓は大小併せて二百三、四十名、五十二人何処にそんなに沢山の妓が住んで居るだらうと不審に思はれる位の処である。

料理店で有名なのは伊勢虎、次で尾張町の角の魚金、あとは末広に岡田といふところだが兎に角はこの入る料理店の数は十二三軒ある。

待合の主なるものはいさみ、浜の家、常盤、花月、福住等。

芸妓屋 

元は「武蔵」系統と「叶家」系統が幅を利かせてゐた土地で、芸ができても、顔が美しくても此の系統でなければ芸妓に非ずと言はれたくらゐ、今も其の分看板や孫店は沢山あるが、勢力は最早昔日の比にあらず。

はこは入らぬが「丸梅」の料理は四谷唯一の自慢ものに数へられて不可なかるべく、通りへ出る夜台のおでんやすしにもなかヽ好いのがある。

津の守気分『貴郎、おもどちらへお遊びにゐらっしゃるの』『おもっていふ程、そんなに遊んで歩きゃしないが、赤坂へはちよいヽ行くよ』『あら左様ですか此頃赤坂から来た妓が一人ありますよ、それを招びませう』『いや、津の守へ来たら矢張り津の守気分の芸妓の方がいゝね』『でも赤坂なら御存知の妓かもしれないぢやありませんか、かけて見ませうよ』 と言ふので女将がひとり呑込んで其の赤坂なるものを招んだのである。

『今晩は……おや?。 』

『おや!。 』

『そウら御覧なさい、お馴染なんでせう。 』

『お馴染には相違ないが、変な処で会たものだねえ?、おい。 といふ呼び方はないね何と言って出てるんだい?。 』

と言ふと、ピカリ、相手の妓の眼の光り電光の如く「そのあと言ふな」。 −世古といふ待合の女中、それも走り使ひをしてゐた女であった。 変なお馴染に逢ってダヂヽとしたそれは十年前の話、今は恐らくそんなのは居まいな。 だがこれを津の守気分などゝ言っては些とひどからう。

こゝは老妓以外は凡て発展すること、見町や白山と異る所なく、特祝も五円、十円、十五円と公称して居るが、三流四流となるともっと安くてもいゝのだ相である。

花街ロマンス

今狭斜町のある処は、往時美渡高須の藩主松平摂津守の上屋敷のあった処でがるが故に俗称「津の守」とは、誰でも知ってることだが、二十年前まではあの窪地に大きな池があってその西涯に瀑が懸り、それを津の守の瀧と称へて、夏季遊びに来る者が多かったとは夢のやうな話。 その瀧があった頃のこと、何でも明治三十三四年頃といふ、小よしといふ芸妓が陸軍の某中尉と心中をした。 それから一時大瀧の附近に小よしの幽霊が出るといふ評判が高かった。 それを当込んで尾上松鶴が、当時その附近に在った末広座へ四谷怪談を出して大当りを占めた。 と其処までは甚だ宜かったが、お岩の祟りか、その興行中に末広座は自火を出して焼失し、ために一層小よしの幽霊の噂が高くなったといふ様な話、今は恐らく誰れも知って居る者は無からう。