霊岸島

京橋区内通俗「霊岸島に」在り、市電永代橋行「霊岸橋」停留場下車。

今日の霊岸島

茅場町から霊岸島に渡る霊岸橋の東側、電車線路を挟んで富島町一、五、七番地、南新堀一丁目一番地、浜町四、五、六、七、九、十、十一番地及び四日市町一、八番地に亙る区域が所謂「霊岸島」と称する花街で芸妓屋及び待合はこの間に集中してゐるが、出先きの料理屋は霊岸橋を渡つて南茅場町、或ひは亀島橋を渡つて八丁堀水谷町に及び、一方は永代橋際の大川端町に及んでゐる。

現在芸妓屋 三十軒。 妓屋 約五十名 待合 二十軒。 料理屋十二軒。

此地では此の三業が打つて一丸となつて「霊岸島三業株式会社」なるものを組織し、待合大和屋が社長、芸妓屋の新増本及び料亭大国屋が副社長、待合相川、芸妓屋鈴増本が常務取締役、料理店喜可久が相談役といふ役割のもとに、株式組織の一営業体として統一経営されてゐるのは、旧市街内ではちよつと珍らしい行き方である。 それで一座敷毎に玉一本を控除して(即ち三本なれば二本、二本、なれば一本として伝票にい記載される)それが芸妓屋と出先きと各半額宛の積立金となるこれも亦面白い制度である。

こんにやく島沿革

霊岸島のことを今日でも「蒟蒻島」と呼んでる人があるが、それは元此の一廓は埋立地であつて、工事が複雑で地盤が非常に脆弱であつた為起つた名であつた。 明暦年間吉原遊廓が日本橋葭町から浅草の郊外へ移転された際、後に取のこされた多くの踊り子(今日の所謂芸妓)は各方面に分散し、就中当時の盛り場であつた深川、両国附近に最も多数集中しつつあつたが、霊厳島は船の発着場で船頭荷役夫及び商人等の往来頻繁なところから、漸次此の方面に出稼ぎをするに至り、遂に一の岡場処をなすに至つた。 即ち安永三年発行岡場処細見には「こんにやく島」として、独立せる花街として其名を留め、当時遊女を抱えた茶屋は九十三軒の多きに達し、遊船の川田、料亭の川端等は特に著名であつた。 又山王祭り名物四十三本の山車の殿りは常に此地で承り、その茶筅茶杓の鉾が有名であつた。 思ふに霊厳島の花街が深川風の情調を帯びて、最も繁栄したのは其の頃であつたらう。

霊岸島情調なるものを明瞭に指摘し得る程私は此花街については知らないが、兎に角東京としては前述のごとく可なり古い歴史を有つた花街で、今日は多少文化の歩みから取残されたやうな嫌ひもないではないが、同時にどことなく江戸情調の偲ばれるものがある。 それが、『霊厳島も、あれで一寸おもしろいととろだよ』と云はれる所以であらう。 近くに兜町・蛎殻町を控へてゐるから、その方面の影響をも少からず受けてゐることは争はれない。

料亭と待合

料亭では江戸時代から江戸一と云はれた蒲焼屋の大国屋(富島町)、南茅場町薬師前の喜可久をはじめ富島町の伊勢平、南茅場町の魚彦、八丁堀仲町のあわや、鳥料理では大川端の都川、浜町の武蔵野。 待合では富島町の大和屋、相川、しま家、浜町の尾喜奈。 南新堀一丁目の増田家、浪の家などを挙ぐべきであらう。

花街名物

大国屋の蒲焼と共に幇間の獅子舞は此の花街の名物である。 幇間は桜川万平、千平、百平の三人で大芸妓と同額である。