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目黒
目黒町下目黒の「目黒不動」前。 東京市街電車ならば目黒線の終点、省鉄山手線ならば目黒駅に下車、陸橋を渡って左りへ行人坂を降りてゆく、距離は六七丁。 目蒲電車ならば「不動前」停留場下車、三四町で門前へ達する。
目黒不動の門前一円の地域が即ち目黒の花街で芸妓屋三十五軒、料理屋が四十軒。 いかに竹の子に縁のある土地だからって何時の間にそんなものがによきヽ芽を出したかと驚ろかれるが、大震災直後隣接町村の目覚ましい発展に伴ふた現象の一つである。 尤も震災前から十名位の芸妓は居たが、夏になると二子多摩川へ出稼ぎした程度の繁昌ぶりであった。
主なる料亭と芸妓
料理屋四十軒と言っても、料理屋らしい料理屋は「角伊勢」と「大国家」位のもの、その他の多くは料理を仕出し家から取る点から言ても、家の構へから見ても、純然たる待合式の家ばかりで、是は待合が許可されて居ない為である。 乃ち主なる家は右二軒の外に、くらの家、互楽、松よし、田毎、勝美家、小はん亭、鈴はん、一の家等。
遊興制度
玉代祝儀の別を股けず、二時間を一座敷として三円四十銭、小芸妓は二円五十銭、三時間となれば大が五円十銭、小三円四十銭。 夜の十二時から翌朝九時迄が七円五十銭で別に特別祝儀は要らない、且つ泊り込でなければ特祝なしの二座敷(六円八十銭)と云ふのが普通ださうである。 格別の情調も無さ相に見える土地であり乍ら、相当繁昌して居る所以は此辺にあらう。 殊に『芸妓玉・祝儀・酒二本料理三品附三円五十銭』などいふ新聞広告を時々見受ける所を見ると、格段に安く遊べる方法もあるらしい。
『目黒の竹の子芸妓ッて、さう莫迦にしたものでないよ、芸には皆相当力を入れてゐて、その点では郊外の花街としては些か出色と言ふに足るね。 』 と、大いに激賞して居る者もあった。 頻繁に通ふ間にはかゝる地にも亦、おのづから一種の情調は生じて来るものなのであらう。
花街名物
一反の竹藪も其の姿を消し、一本の栗の木さへ見出されなくなっても、晩春から初夏へかけての「筍めし」と秋の「栗めし」とは昔から今に変らぬ目黒の名物。 それを又わざわざ食べにゆく数奇者が今以て在るのだから、名物といふは一体さうした物、サンマ専門の料理屋のないのが寧ろ不思議な位である。 角伊勢の邸内にある「小紫権八比翼塚」といふもの、これは名物と云って好いか名所といふべきかを知らぬが、花街名物としては是以上気の利いたものは無からう。 角伊勢にはいろヽのローマンスがある、むかし一人の法師角伊勢へ来て豆腐のでんがくを注文した、急いだため少し生焼のまゝ出したところ、帰り去った後膳の下に左の如き一首の狂歌が認めてあった。
こんごりと焼そなものをせいたから、中にふどうがあるも是非なし。
後日その法師のー休和尚であったことが判って、その書は今も尚大切に保存されてゐるさうである。