渋谷

山手線の渋谷駅、市電ならば中渋谷線の終点で降りると、省線ガード下から西ヘ一直線に通じてゐる十二間の舗装道路が、改築された「道玄坂通」で、夜の賑ひは東京の神楽坂通りを凌ぐと言はれる程であつて、未だ夕方の灯のともらない前から、両側にズラリと露店が出張つて、其のひろい道路が真に文字通り人の波で埋まり、肩摩轂撃も啻ならずである。 その人波に揉まれつ揉みつ上つてゆくと、中程から右手に一段と高くなつて渋谷の浅草と言はれる「百軒店」がある。 渋谷キネマ、聚楽座といふ二館を中心に洋館二階建の商買やカフェがズラリと百余軒、小料理屋もあればダンス・ホールもあり、時には曲馬団の臨時小屋も設けらるれば小規模の展覧会まで開かれるといふ渋谷第一の殷賑区。 その裏手が渋谷花街の中心「円山」である。

渋谷の花街を「道玄坂」、そこの女を「道坂坂芸妓」と一般には呼んでゐるが、地廻りは単に「山」と呼び慣はしてゐる。 昔は「荒木山」今改めて「円山」、略して「ヤマ」とよんでるのである。 しかし細かく分てば円山、当士横町、劇場裏、旧尾張屋横町、神泉谷その他にも少々は散点して居る。 即ち道玄坂通を登り切ると、右側に交番があつて、道は歪形の十字路となつて居る、右へ行くと渋谷劵番事務所を始め料亭や待合の軒燈がチラホラしてすでに花街気分横溢。 だらだらと小坂を一つ降りた処が神泉谷で、渋谷名物として知られた「弘法湯」はこゝにある。 弘法湯(浴場)と神泉館(料亭)とは一つ家だ。

交番から神泉谷へ降りる間の、右側の裏手一面の広潤な区域が所謂円山で、百軒店の裏まで続いて大路小路縦横に通じ、両側にならぶ家々は芸妓屋にあらずんば待合茶屋、待合にあらざれば即ち芸妓屋で、軒には一様の艶消し電燈を掲げて、いきな格子戸の中からは、真昼間もチントンシヤンと絃の音の洩れてくるところ、千代田稲荷を分請した赤い祠まで整つて、花街気分彌よ濃かである。

玉川行きの電車通りに面した渋谷劇場の裏手一面が「劇場裏」なる一画で、更に半町ほどゆけば右側に「旧尾張屋横町」がある、そこは鰻の寝床のやうな路次で小待合ばかり。 大伴病院の裏手にも亦一区ある。

交番前から向側—即ち神泉谷道とは反対の狭斜へはいれば「当士横町」で、料亭に福壽亭松風がある、芸妓屋はすくなく小待合が多い。 劇場裏とは背中あはせの位置になつてゐる。

元はひとつの花街で常時四百乃至四百五十名の芸妓を擁し、新市街随一の大花街を以て誇りとしてゐたが。 昭和六年五月其の一部が分離して「道玄坂三業」を組織し、今日は「渋劵」(又旧劵)「道劵」(又新劵)の二派にわかれてゐる。

渋券

芸妓屋 約一〇〇軒。 芸妓 約三〇〇名。 料理屋二〇軒。 待合一六〇軒。

代表的料亭は神泉館。 有明(ユウメイ)館。 次で松風(ショウフウ)。

同じく待合では 茂の屋。 立花。 もみぢ。

芸妓屋では大ゑい、春本、栄家、夢三升などが昨今羽ぶりのよいところ、芸妓では一好の平三、その妹である平代一好の正子、菊新藤の亀松、春福の家のぽん太郎、峰新美代の峰松、福栄家のいてふなどを挙げやう、いづれも士地では姐さん株、殊に糸と唄の平三、踊の正子、この二人は真実の姉妹で顔はあまパッとしないが山の芸ごとにかけては無くてならない妓だ、ぼん太郎の若い頃は美しかつた、峰松といてふはガラヽして気さくな所が座持によろしく、いてふが半玉時代の阿呆陀羅経は渋谷の一名物だつたが、今は最早あまりやらぬらしい。

芸妓の玉代は一本二十五銭、一時間は二本、玉敷五本(二時間半)を以て一座敷とし、あと口は二時間となつてゐる。 祝儀二円、箱丁五十銭。 —即ち二時間半三円七十五銭。 小芸妓は一本十五銭で、祝儀一円五十銭、箱丁五十銭、合計一座敷(二時間半)二円七十五銭。 ○○外は七・八円といふところ。

待合の席料は一円五十銭乃至三円を止りとしてゐる。

道劵

芸妓屋 二〇軒。 芸妓 五十五、六名。 料亭 九軒。 待合 八軒。

これに属する主なる料亭は銀月、三楽、待合では菊水、楽々などで、芸妓の方でよく売れるのが吉の家の新之助、平の家の小万、豊年家の清香、田中家の小稲、喜久本のおかる等である が、若手で御安直なのが多く、此花街を背負つて立つといふやうな姐さん株は居ない。

芸妓代は時間制度で最初の一時間大芸妓一円五十銭、小芸妓一円二十銭。 爾後一時間を増す毎に大芸妓一円増し、小芸妓は八十銭増しだから、二時間一座敷とすると大芸妓二円半、小芸妓二円、お値段に於ても至極安直なのを特色とし、○○外は席料なしの五円五十銭。 『サービスをモットとして見晴らしよく、気安くて、而も奉仕百パーセント、互縁で満足が出来ます。 新見番、目印は青電燈』などゝ新聞に十行広告を出してゐるのは此の劵番所属の待合で、待合も料亭も芸妓屋も一せいに青電燈を掲げてゐるから一目してわかる。

渋谷花街情調

渋谷の芸妓は泥くさい、などゝ田圃そだちの鰌あつかひにされたのは少くも十数年前の話で、今日は市内三流どころの花街に此して遜色はないが、彼の震災後の大繁昌に際つて、確実にその機運を掴み得なかつたところに、底力の足りいなことを示してゐた。

円山雑詠(詠人しらず)

○秋ちかしこうぽうの湯の煙突に、夕日あかあかと暮れてゆく宵。

○わびしさは神泉くわんのよるの雨、はなれ座敷に爪びきを聴く。

○見るからにあなすがすがしぽん太郎の瞳の中にぞ秋は棲むらし。

○歌まろの絵に似るてふも仇ならじ、今奴こそはなまめきて見ゆ。

○ニックネームをがちやヽといふいてふにも恋はあり鳧女也けり。

○峰松ののろけ話など聴きをれば、心がつかれるこれわいさのさ。

渋谷の色地蔵

今の神泉谷あたりは往時は「隠亡谷戸」と云つて、火葬場だつた処である。 こゝで荼毘に附した亡者の冥福を祈る為に建立した大きな石の地蔵尊が、花街の入口、坂上の交番の隣りに『右北沢道』など書いた右標と共に建つてゐたのは奇観であつたが、道路改正にあたつて取除かれ、今日は渋谷劇場横に新らしく堂宇をつくつて祀られてゐる。 背に「文化三年」と刻ん。 である、文化三年といへば春花秋雨こゝに百余年、曩には火葬場への曲り角に立つて冥界の道案内者、今日は花街の守護仏?芸妓から赤いよだれ掛などを贈られて艶めかしく、地蔵さまも定めて感慨無量であらう。 将たそれとも、予が職掌は六道の能化、色の道だけは管轄外ぢやと苦り切つて在す乎。 此の地蔵さまと、力士のやうに肥つた仲吉の「はだか甚句」などがまづ道玄坂名物であらう。

渋谷は食ひ物のまづい処でこいつに一番閉口するが、洋食の二葉亭(昭和銀行道玄坂支店横)だけは自慢もので、本式の仏蘭西料理、これだけの家は東京市内にも一寸見当らない。