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玉の井
向島区寺島町字玉の井。 市内浅草雷門から玉の井行といふ乗合自動車があつて約十五分間、東武線は雷門駅から四ツ目の玉の井駅下車、駅から約一丁。 京成電車も亦曳船駅から玉の井支線を分岐し、花街のすぐ後ろへ吐き出してくれる。
隅田堤の下、自髭神社の背後に当る一廓、今や吉原と並んで東京名物のひとつに算へられつゝある此の事実を、奈何ともする能はず、「玉の井」は私娼窟の代名詞とまでなつて居る。
特別のカラアを有つた一種の花街として、花街めぐりの著者はこれを無視する訳にゆくまい。 大正八年欧州大戦の好景気に乗じて元府会議員小島某等に依つて、土地発展上こゝに花街経営が目論まれ、向島の芸妓町を移転させるつもりで、田圃を埋立てゝ新開地を開いた。 入金が支店を出すやら、向島から移転してくる気早な芸妓屋などもあつたが、三業地は不許可となつた為一転して私娼街と化し、浅草六区を駆逐された女がこゝと亀戸に集まつて、忽ち代表的私娼街をかたちづくるに至つたもので、同じく闇に咲く花ながらも、普通の銘酒屋とは違つて、一廓の中に公然と営業をして居る全たくの別世界である。 家数にして四〇七軒、女の数にして九五〇人。
玉の井風景
廓内はさながら碁盤の目のごとく又原稿紙の如し、縦横に露路が通つて、左右に一寸の隙間もなく、ギシギシと置屋が並んでゐる。 いづれも一棟数間の同じ様な棟割長屋で多くは二階建てだが一戸の間口は広くて九尺、狭きは六尺、軒には一爽に艶消し丸ホヤの電燈を輝やかせて、………、……、………、………、………………、……………、…、…、…………、入口の戸が硝子格子になつて居るのも時代相と云はふか、二人並んでは通れぬ程の狭斜にも、どこか一種の明るさがある。 格子に並んで同じ磨硝子の半障子、多分その奥に美人が控へて在すであらうと想像される障子の一枠は果せる哉切穴の如く、見通しの利く並硝子になつてゐて、表を素見して客を呼びかける声、北は青森から西は九州の端に至るまで、南部訛りに秋田弁、仙台訛りに常陸言葉、越後言葉に佐賀訛り、中国訛りに九州弁等々日本国中の地方訛りこの処に集まると言つては大袈裟かも知れぬが、まだ都馴れぬ女の多いことは確実、はゝあ此奴はどこの国さの女、こいつは何県あたりの女と鑑別してあるくだけでも相当の興味は持てさうである。 兎に角往年の浅草十二階下その儘の光景である。
高等女学校を優等で卒業したといふ女がゐるかとおもへば「花電車」とあだ名を取つた上海がへりのエラブツ、すばらしい曲芸を演じて人気を一身にかき集める女が居り、いかにオホホルミンを飲んでもとても若返りさうにない荒み切つた大年増が、十五か十六と見える垂髪の少女に化けてゐたなど、何しろすばらしい世界に相違ない。 しかも素見の客は今日は吉原よりも玉の井の方が多く、一夜千や二千の素見は来たか来ないかのやう、此の朱引地内をぐるりと一すると一里以上、時間にして二時間を要するさうだが、それを一めぐりして来ないと眠れないなどいふ御定連が少くないさうである。
露地は横町から横町へ連なり、裹から裹へ通じて不馴れな者は、うかうかすると出口がわからなくなつてしまひ相なところ、全たく現代八幡不知、帰りの道を忘れて抑留さるゝに至るもあながち無理では無いやうに思はれる。 樋口一葉女史生きてあらば「新にごり江」の記を書かせて見たし。 高等女学校を卒業した女が多く(噂ほどでもあるまいが)月に千円近くも稼いで雇主に頭をはねられても尚一ヶ年三千円から貯金する女があるといふ噂。 彼の頃とは兎に角世相がちがつて来てゐる。
遊興制度
家の中は大抵階下が一室、階上が一室、家数の割に女が、少いのはこれが為であらう。 女に「主人出方」(所謂自前)と唯の「出方」(抱妓)の二種あり、遊び方に普通の「遊び」と「お湯」の二種がある。 「おぶ」といふはお茶を飲んで帰るもので「遊び」がほんたうの遊び、是にまた「……」と「……」の二種ある。 は即ち……………………、最低……から……ま.で………。 ……、…………、…………ださうである。 —こんな事を余り詳しく書くのは、いかに何でも気が照れる。