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洲崎の災害
洲崎の災害
洲崎の地は海岸に接して居る為め度々の海嘯に逢ひ数度の大火に遭遇して居る、寛政三年九月四日の海嘯には相当の損害があつた為めに徳川幕府は其の附近一帯に居住を禁じた。
洲崎遊廓移転後に於ける災害の状況を見るに
明治二十五年十一月二十五日の火災
一丁目十間通り片側焼ける
明治三十五年の海嘯
明治三十五年九月大暴風の為め提防破壊され海水漲溢した。
明治四十四年の海嘯
此の年六月十九日、七月廿六日及八月十日の三度暴風雨出水を見たがこれが為め二十六日午前ニ—三時の間に洲崎遊廓の南側海岸堤防約三百間を海嘯の為めに破壊せられ約三尺、乃至八尺の高さで潮水が人家を襲つて弁天町一丁目十六番地貸座敷新遠江事太田方は海に面した角の家であつたが為め倒潰して主人夫婦及小児一人、遊客三人、娼妓十六人圧死し同町二丁目十五番地では倒潰家屋四戸を出し十六人の圧死者を見(死体発見十四人、外二名ハ推定)その外洲崎病院及事務所は半潰し別に廓内で十一人の住所不明の死者あり丁度この被害と時を同じくして同町二丁目六番地から火を出し半焼で消止めた当時廓内の浸水は平均床上七八尺であつた。
大正二年三月二十一日の火災
大正二年三月二十一日六間通り河内楼より発火北方に焼け西平井町まで及んだ。
大正五年二月十四日の火災
大正五年二月十四日午后三時四十分一丁目十四番地角並八幡小川せい湯所より発火西風に煽られ明石楼に移り一丁目十五番地本住吉甲子楼及十六番地を焼き夜半鎮火し大八幡だけ残つた。不思議に焼け残つた浮城の如き大八幡も三日置て十七日の午前五時頃火災に遷ひ一瞬の間に灰となつた、出火の原因は漏電と曰ひ放火と 曰ひ判明しない。
大正六年十月水害
此の年九月三十日折からの降雨次第にその勢を増し云々
夜半まづ洲崎遊廓の南岸堤防決潰し、洲崎弁天町平井町近辺では浸水軒を浸し廓内にては一戸十数人の死者を出した。
大正十二年九月一日震災
大正十二年九月一日午前十一時五十八分突如として関東地方を襲る大地震、加ふるに大火災を起し数万の生霊を犠牲となした一大惨事は世人の記憶に新たなるを以て今更茲に説く必要はない。
当洲崎は地震と共に倒壊家屋あり圧死者を出し午後零時三十分頃一丁目九番地、一丁目十番地十六番地、一丁目十五番地附近より発火し一時十三番地は残りしも更に午後四時頃全部焼失、二丁目十一番地十四番地附近より発火したも一時消し止めた、然し風は方向を転じ全部を焼き払ひ金殿玉楼も午後七八時頃全く焼野原と化した。
震災後に於ける状況を見るに
一、大正十二年八月三十日現在娼妓数 | 二二、六一一 |
一、大正十二年八月三十日現在貸座敷数 | 三〇二 |
一、震災により死亡したる娼妓数 | 四二 |
一、同上 行方不明者 | 四 |
年度 | 貸座敷数 | 娼妓数 |
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大正十二年十二月一日現在 | 四一 | 二九 |
十二月末現在 | 一〇八 | 六五五 |
大正十三年一月末 | 一三二 | 八三一 |
同二月末 | 一七四 | 一、○一八 |
同三月末 | 二〇一 | 一、一五二 |
同四月末 | 二二〇 | 一、二六九 |
同五月末 | 二三〇 | 一、三四六 |
同六月末 | 二四一 | 一、三九六 |
同七月末 | 二四六 | 一、四四四 |
同八月末 | 二五二 | 一、四七五 |
同九月末 | 二五二 | ー、四三〇 |
同十月末 | 二五七 | 一、四五三 |
同十一月末 | 二六二 | ー、四六八 |
同十二月末 | 二七〇 | 一、五三三 |
大正十四年十二月末 | 二七二 | ー、六〇二 |
昭和元年十二月末 | 二七〇 | 一、七六五 |
同二年十二月末 | 二七七 | 二、〇四〇 |
同三年十二月末 | 二七七 | 二、一九六 |
同四年十二月末 | 二八六 | 二、三二九 |
同五年十二月末 | 二九一 | 二、五一四 |
同六年十二月末 | 二九七 | 二、七〇七 |
同七年十二月末 | 三〇六 | 二、八五六 |
同八年十二月末 | 三一五 | 二、七六九 |
同九年十二月末 | 三ニー | ニ、七七三 |
同十年十二月末 | 三二三 | 二、八九一 |
以上 |
大正十四年三月五日の火災
午前十時三十分頃西平井町市設集団バラツクの一隅より発火風速二十米突の北風に煽られ猛火は川を越へて廓内に飛火し二百余戸焼失、損害五拾万回、負傷者二十名、警視庁病院及三業組合事務所も共に焼失した。