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花柳病の予防及取概説
花柳病の予防及取概説
温古知新は何事によれ興味を有するものであるが 人類の歴史に執拗に纏はり来つた 男女関係に於て特に然り、 されば花柳病予防の起源に溯りて探索するのも従事でないと信じて筆を取る次第である、 花柳病予防を公衆衛生上の意味で必要とするに至つたのは某書によれば西洋にては十五世紀の末葉に徹毒が惨害を逞ふせんとするに及びし結果であり予防法が大規模に講ぜらゝに至つたのはコロンブスの米大陸発見後一四九五年前後である、当時は西洋に於て相当厳格なる予防法が施行された様である。
一四九五年には蘇国王ヤコブ二世の命令により総ての徹毒患者には烙印の刑に処せらるゝ事となつたと曰ふ事があるから此れを見ても中々厳格であつたらしい。
降つて一七〇〇年伯林妓楼規則と称した其の条項中に
第五条 嫖客及娼妓の健康は自身に於て保持すべし娼妓は毎週二回指定されたる外科医の検診を受く可し
第九条 娼妓にして若し病毒に感染したる時は清潔節制に努むべきのみならずシヤリテ病院外科部に入院し同所の病室に於て無償にて療養すべし
と曰ふ如き規定が存在した。
我が国にて最初の検徹が行はれたのは万延元年長崎の地である、徳川幕府が横浜を開港してから各国公使、領事等の希望に従つて検徹驅徹を実施することに決したのは慶応元年であつた、そこで幕府は横浜姿見町遊廓に仮病院を作り英国海軍々医ニエートンを主任として検診治療に当らしめ続いて長崎、神戸に及ぼしニユートンをして巡回監察させた。
我が洲崎即ち根津時代に於ける驅徹の先驅者は松本順氏である、松本順氏曾て長崎留学中露国軍艦入港に際し遊女検徹を取扱つて以来病毒の恐るべきを痛感して江戸帰来後驅徹の緊要な事を力説したが吉原では楼主の反対を受けて行はれなかつた、岡ッ引常盤屋万吉(後ニ楼主)松葉屋渡阪清吉等の後援にて根津に遊廓新設の許可を得て驅徹を実施する事となり、北町奉行石河河内守に謀り閣老松前崇広に内談し逐に允許され遊廓が出来たが検徹は行はれずに了つた。
松本順氏の口述書に「此の成立するや順は殆んど家計を傾け去れり総門前に於て尺角一丈余余の棒抗を建」「西洋医学学校驅楳院付キ町地」と大書せり、惜ひべし未だ大成せざる前に於て予は奥州に走り幕府は倒れ徒に此の花柳地を増多せしのみ………」
此れを以て見るも松本順氏熟心は推察する事が出来る、明治四年五月民部省は遊妓増殖禁止並に徹毒検査の施設方に就て達を発した。
近来各地方売女渡世の者漸次繁殖致し其の弊害不尠壮年の者は之が為め遊情奢侈に流れ終に産業を破り一家退転し加之徽毒の症を受け身体支離相成候輩も不少剰へ其の毒を子孫に伝ふるに至る実に憫然にも有之第一淫風盛んに相成候ては土地の風俗をも紊し不容易事に付爾来遊女売婦の類新店開業の儀は堅く不相成開店の向も人員増殖を可禁止旨公然布告に不及候得共各地方官に於て屹度除害の施設相立可申事、但御達相成候真別紙為心得相廻候也
(別紙) 娼妓徽毒検査方施設
(明治四年四月三十日民部省沙汰)
近来各地方売女渡世の者漸次繁殖致し其弊害不尠殊に徽毒伝染人身の健康を害し候に付小管県建言の次第も有之風俗人体に関係し尤も注意可致事に候条各地方官に於て屹度除害の施設相立候様其の省より可相違候事是の結果東京にては明治四年九月から当時小管県下旧令(河瀬秀治)てありた南北千住に施行された其の時の娼妓に対する告諭中に諺に、虱虫と負債は隠すに隨て殖ると然れ共此の二の者は猶終身之を秘し得べし独り徽毒の害たる愈秘して愈顕れ眉を損し鼻を墜落し盲となり聾となり四肢不遂骨節疼痛終に死亡に至る幾何ぞや
今から考へると充分人を喰りた様な文句だ然れこれも娼妓の忌避と楼主の反対に依りて五年四月中絶してしまった、更に明治六年十二月娼妓規則八ヶ条が発布された其の第六条に毎月両度づゝ医員の検査を受け其指図に従ふべし、病を隠して客の招に応候儀決して相成不候事
これに依って東京府では明治七年五月八日、昨年十二月中相達置候娼妓規則第六条の通り近日各地へ医師出張検徽を施行可致云々の布達をした。
検徽を当時は「陰門開観」と称して之を行ったのであるが我国開闢以来最初の施行であるので色々の珍談や奇談が伝べられてゐる今当時の新聞に掲載されたものを記して見様。
明治五年四月二日発行の東京日々新聞第三十八号の記事中に
大阪より来りし人の話に(?)一盛事なるは、此のほど松島に遊廓を開き各所の遊女、芸妓ことごとく爰に衆合なさしむる策とて普請中なり、又廓内に病院を設け遊女及び絃妓までを検査して淫瘡を避るの方法御施行相成るに付き実に一奇談と言へるあり各地の妓誰言となく此度病院には陰門を御検査なさるゝは全く××からよい真珠がでるさうでございます、其真珠を病いんひとり目薬に用ゆるといふ事でございますと各妓は挙つて是をかなしみ親族大評議にて自前の絃妓は廓を退つて素人ならん事を欲し沸騰大かたならざりしとなり云々。
又明治七年六月発行の新聞に
芳原検徽の挙本月六日開業とし(中賂)当日百二十名の受検者中 有毒患者八十名を過ぎたり!
これを見ても如何に病毒の延漫しありしが推知せらる。
斯の如く幾多の変遷を経て警視庁にては明治二十七年四月訓令第十八号を以て娼妓検査書服務心得を制定し一般検査の方針を定め明治三十三年十月内務省令第四十四号を以て娼妓取締規則発布せらる
其の第三条第三項に娼妓名簿登録申請者は登録前庁府県令ノ規定ニ従へ健康診断ヲ受クベキモノトス
第九条ニ娼妓ハ庁府県令ノ規定ニ従ヒ健康診断ヲ受クベシトアリ
此れ現在施行せ居られるものなり
警視庁に於ては娼娼健康診断施行規則を設け警視庁管内に於ける健康診断の日割を定む
同施行規則第二条中ニ
新吉原及洲崎=月曜日、火曜日、水曜日、木曜日、金曜日、土曜日
第三条ニ娼妓ハ毎週一回定期ノ健康診断ヲ受クベシトアリ、以上の諸規則により娼妓は必らず健康診断を受け若し受けざる場合は就業能はざる立前となり現在最も厳正に行はれりゝある。